第15回 エマヌエル・モール式のベーゼンドルファー

(文:川口成彦)

(文:川口成彦)

【メトロポリタン美術館所蔵のベーゼンドルファー】

皆様、鍵盤が2段あるピアノってご存知でしょうか。2段鍵盤というのはチェンバロやオルガンにおいては当たり前の光景ですが、「ピアノ」となると大変珍しいものでしょう。しかしニューヨークのメトロポリタン美術館で貴重な2段鍵盤のピアノを見ることが出来ます。この美術館に所蔵されているものはベーゼンドルファーによる2段鍵盤のピアノです。このようなピアノを「エマヌエル・モール式ピアノフォルテ( Emánuel Moór Pianoforte)」、「デュプレクス=カプラー・グランド・フォルテピアノ(Duplex-Coupler Grand Pianoforte、2段鍵盤式グランドピアノ)」などと呼びます。

エマヌエル・モール式の1940年頃のベーゼンドルファー (写真提供:メトロポリタン美術館)

エマヌエル・モール式の1940年頃のベーゼンドルファー
(写真提供:メトロポリタン美術館)

MOORDOUBLE KEYBOARD

2枚目の写真でご覧頂ける通り、ベーゼンドルファーのロゴは右に刻まれ、真ん中には “MOOR DOUBLE KEYBOARD” と刻まれています(美術館にあるもの以外ではベーゼンドルファーのロゴが真ん中にあるものもあるようです)。

【エマヌエル・モール】

さて先ほどから「エマヌエル・モールEmánuel Moór 」という名前を沢山出していますが、これはこの2段鍵盤のピアノを発明した人物の名前です。モールはこのピアノを開発した発明家であると共に、ピアニスト、作曲家としても有名です。彼は1863年にハンガリーのケチケメート(Kecskemét)で生まれ、1931年にスイスのシャルドンヌで亡くなりました。作曲はブダペストにてローベルト・フォルクマン(Robert Volkmann 1815-1883)、ウィーンにてアントン・ブルックナー(Anton Bruckner 1824-1896)に作曲を師事しました。その生涯の中で5つのオペラや8つの交響曲の他、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲、ヴィオラ協奏曲、ハープ協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲など幅広く作品を残しました。1905年にはチェリストのパブロ・カザルス (Pabro Casals 1876-1973)と知り合い、チェロ協奏曲第2番を彼に献呈しています。その他カザルス、ヴァイオリンのジャック・ティボー(Jacques Thibaud 1880-1953)、そしてピアニストのアルフレッド・コルトー(Alfred Cortot 1877-1962)のためにトリプルコンチェルトを書いています。

エマヌエル・モール

エマヌエル・モール

彼が「エマヌエル・モール式」と呼ばれる2段鍵盤のピアノを開発したのは1920年代のことでした。1人目の妻の死後に結婚したイギリス人ピアニストのウィニフレッド・クリスティ(Winifred Christie 1882-1965)と共に欧州とアメリカでプロモーションのためのツアーも行いました。そして彼女とはこのモール式ピアノのための教本も出版しました。
エマヌエルとピアノ

【エマヌエル・モール式ピアノについて】

さてモールが開発したこのピアノは一体どういったものなのでしょうか。2段鍵盤なのでチェンバロと同じようにそれぞれの鍵盤対応した弦が貼られているのだろうとまず思うかもしれませんね。しかし、このピアノは鍵盤が2つあるからといって普通のピアノよりも弦が多いというわけではなく、両鍵盤が同じ弦を共有しています。しかしながら、上の鍵盤は下の鍵盤より1オクターブ高い音を打弦出来るようになっているのです。なので同じ位置にある上下のキーを一緒に押すとオクターブを響かせることが出来ます。つまり普通のピアノでオクターブを奏でるときの手の状態で、親指で下の鍵盤、小指で上の鍵盤を打鍵すると2オクターブを奏でることが出来るのです。1つの手で2オクターブあるいはそれ以上の音域を支配することを可能にしたのがこの「エマヌエル・モール式ピアノ」です。キーは全部で164鍵あり、下段が88鍵で上段が76鍵です。
さらにこのピアノはペダルが3つ付いていますがお馴染みの2つのペダルに加えて付いてある第3のペダル(真ん中)は下の鍵盤を打鍵すると上の鍵盤も同時に打鍵することを可能にするペダルです。つまり第3のペダルを踏むことにより片手でどんな困難なオクターブユニゾンの高速パッセージも奏でることが出来るのです。普通のピアノでは1人では実現不可能な音の世界をモールのピアノでは生み出すことが出来ます。モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel 1875-1937)は普通のピアノで弾くために書いた自分の作品をモールが開発したピアノで弾いてみると、自分が真に意図した響きを再現出来ると絶賛したそうです。
また、モールのピアノは半音階グリッサンドを容易に出来るようにしたことも画期的なことでした。下の写真でお解り頂けると思いますが、この2つの鍵盤の中間に下の鍵盤の白鍵が黒鍵の位置まで盛り上がっている部分があります。この部分を利用すると半音階グリッサンドが可能です。ヴァイオリンやチェロでしばしば用いられるポルタメントの音響効果はピアノでは困難ですが、半音階グリッサンドによってそれに近いものを表現出来ます。普通のピアノでも半音階グリッサンドのような音響を出すことは不可能ではありませんが、モールのピアノでは完璧な半音階グリッサンドを奏でることが容易に出来ます。

2段式ピアノ
「エマヌエル・モール式」のピアノの第一号器はSchmidt-Flohrというスイスのピアノメーカーによって1921年に作られ、その後この楽器は話題を生み1924年頃になると他のピアノメーカーも製造に取り掛かるようになりました。プレイエル、ウェーバー(Aeolian-Weber)、チッカリング(1台のみ)、ベヒシュタイン、スタンウェイ(1台のみ)、そしてベーゼンドルファーなどが製造しましたが、第二次世界大戦の後に完全に廃れてしまいました。約60台このタイプのピアノは作られましたが、最も数多くこのピアノを作ったのがベーゼンドルファーだったそうです。

近年ではクリストファー・テイラー(Christopher Taylor 1993年にヴァン・クライヴァーン国際ピアノコンクールで第3位入賞したアメリカ人ピアニスト)がJ.S.バッハのゴルドベルク変奏曲の演奏をモールのピアノで行なっています。モール式のピアノは第二次世界大戦を機に廃れてしまったように見受けられますが、今日においても非常に真新しい興味深い楽器のように感じます。戦前の遺産のように楽器が一般認識されるのではなく、テイラーのように実際の演奏を通じて新しい実践が今後もますます行われるときっと素敵だろうな、と個人的に思っています。

YouTubeにはウィニフレッド・クリスティによるモールのピアノを使用した録音がありました。また、テイラーの演奏やインタビューも色々あったのでご興味ありましたら是非見てみると面白いと思います。クリスティの録音はこちらです。

1928 WINIFRED CHRISTIE on BECHSTEIN MOOR DUPLEX GRAND PIANO J. S. Bach Toccata and Fugue 

【余談: 微分音ピアノ】

エマヌエル・モール式のピアノのように戦前に開発された新型ピアノは他にもあります。その1つがなんと鍵盤が3段(!)もある微分音ピアノです。半音よりもさらに細かく分けられた音程である微分音を出せるように調律された鍵盤を備えているため、宇宙的なサウンドを生み出すことが出来ます。20世紀は微分音を活用した作品も多く書かれるようになり、それに伴いこのような楽器も開発されました。ドイツのAugust Förster というピアノメーカーがこういった微分音ピアノの開発を手がけました。ピアノという楽器の変容は本当に興味が尽きません。

微分音ピアノ 写真提供: Hába Quartet

微分音ピアノ 写真提供: Hába Quartet