第3回 ベーゼンドルファーのおはなし

この2週間、第9回浜松国際ピアノコンクールで巷はクラシック音楽一色でした♪若い演奏家のパワーに、エネルギーをもらいました!

さて、ベーゼンドルファーのおはなしも第3回となりました。いつも興味深いお話を川口さん、ありがとうございます。

~~~ベーゼンドルファーのおはなし~~~

(文:川口成彦)

(文:川口成彦)

第3回 フランツ・リストとベーゼンドルファー

   こんにちは。早いもので2015年もあと少しですね。「ベーゼンドルファーのおはなし」を読んで下さっている皆さまいつも本当にありがとうございます。「今回は何について書こうかなぁ」と色々思いを巡らせながら楽しく書かせて頂いています。そして今月のお話しは「愛の夢第3番」や「ハンガリー狂詩曲第2番」などで広く親しまれているフランツ・リストを登場させてみました!

 第1回でもお話しましたように、ベーゼンドルファーのピアノは1828年にイグナーツ・ベーゼンドルファー(Ignaz Bösendorfer 1796-1859)が自分の楽器製作の師であるヨゼフ・ブロードマン(Joseph Johann Broamann c1771-1848)の工房を買い取って創業しました。ウィーン市の役所からその経営許可が認められたのがこの年の7月28日だそうで、この日がベーゼンドルファーというピアノの誕生日のようなものになるでしょうか。

 ベーゼンドルファー社のピアノは創業して間もない頃から注目に値する素晴らしいものであったようで、イグナーツ・ベーゼンドルファーには1839年にオーストリア皇帝フランツ1世から「宮廷及び会議所御用達のピアノ製造技師 K.K. Hof-und Kammerklavierverfertiger 」の称号が与えられます。そして同じく1839年および1845年にウィーンで行われた産業博覧会で最優秀の金メダルが贈られています。そしてこれらの名声と共にベーゼンドルファーのピアノの需要は益々増え、国際的にも広く認知されるようになりました。そしてこの19世紀中頃、イギリス、ドイツ、フランス、オスマン帝国、さらにはエジプトやブラジルからもピアノの発注があったそうです。このようにベーゼンドルファーの需要が増えると共に工場の拡大が必要となり、1857年に新工場建設が始まります。そして1859年に新しくなった工場での経営がスタートするところでしたが、その幕開けを目の前にイグナーツは亡くなってしまうのです。それによりベーゼンドルファー社のピアノ事業は息子ルードヴィヒ(Ludwig Bösendorfer 1835-1919 )に受け継がれることになります。そしてこのルードヴィヒの時代にベーゼンドルファー社のピアノはそのゆるぎない地位を得ることになります。

ルードヴィヒ・ベーゼンドルファー

ルードヴィヒ・ベーゼンドルファー

19世紀中旬のベーゼンドルファー社のこのような歴史を見つめた作曲家の一人にフランツ・リスト(Franz Liszt 1811-1886)がいます。リストが好きな方は例えば『詩的で宗教的な調べ』や『コンソレーション』、『3つのノクターン(愛の夢)』のみならず晩年の無調性を先取りしたような作品群など、彼のピアノ音楽の内向性や神秘性に心惹かれることもあると思います。しかしながらやはりリストのピアノ作品および彼の演奏スタイルの最大の特徴として火花が散るような超絶技巧を忘れてはいけません。彼が「ピアノの魔術師」とも言われた所以であるそのアクロバティックな超絶技巧はヨーロッパ中を虜にし、沢山の聴衆を熱狂し「気絶をさせる」ほどでした。

フランツ・リスト(1858年の肖像画)

フランツ・リスト(1858年の肖像画)

 リストは人類史上最も偉大なピアニストの一人ですから、わたしの憶測からすると非常にデリケートなピアニシモの表現や、メロディーの歌い方および情緒、和声感覚など全てにおいて敏感な人物であったと思います(だと信じたいです)。しかし繊細な表現の一方で情熱的で力みなぎる表現においても際立っており、演奏中に弦が切れることや、ハンマーが折れることが頻繁にあったようです。そのためステージに楽器が壊れることを想定して3台ピアノを並べたこともあったとか…。そしてそのヨーロッパ中を震撼させたエネルギッシュな演奏スタイルに唯一耐え忍んだピアノがベーゼンドルファーであったという話があります。1838年の若き日のリストが友人からベーゼンドルファー(まだイグナーツの時代です)を薦められて演奏すると、ピアノは壊れることなく見事にリストの要求に応えたということからこの伝説は生み出されました。リストはそれ以降ベーゼンドルファーを好んで弾くようになりますが、ベーゼンドルファーのピアノが世の中に広く認知されていく過程においてリストという大ピアニストの存在はもの凄い影響力を持っていたでしょう。下の絵画からもリストとベーゼンドルファーの親密性をうかがうことが出来ます。

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの前でベーゼンドルファーを演奏するリスト

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの前でベーゼンドルファーを演奏するリスト

 さてこの度リストが晩年に所有した1873年製のベーゼンドルファーのピアノの写真をハンガリーはブダペスト在住のピアニスト山中歩夢さんに撮って来てもらいました!歩夢君本当にありがとうございます(^^)このベーゼンドルファーがあるリスト記念博物館(Liszt Ferenc Memorial Museum)はリストが最晩年の1881年から1886年までを過ごした家が博物館になっているそうです。今はリスト・フェレンツ音楽大学(通称リスト音楽院)の旧校舎に付随しています。このリスト・フェレンツ音楽大学も1875年にリストにより創立した音楽院です。いやはやブダペストはやはりリストの存在が身近に感じられる街ですね。そしてこちらがリストが晩年使用した1873年製ベーゼンドルファーです!!

ピアノ

ピアノ横

深みがある茶色のボディーが印象的ですし、譜面台の彫刻がとても美しいですね。そしてネームプレートはこちらです↓

鍵盤

内部の写真も撮って下さいました。楽器の左側面から撮った写真です。弦はまだ平行ですね(現代のピアノは交差弦になっています)。

ピアノ2

この度は博物館の関係で音までは出すことが出来なかったようですが、これらの写真を見るだけでリストがベーゼンドルファーのピアノを弾く姿が目に浮かんでくるようで、なんだか音まで聴こえてきそうです。リストは1830年代に初めてベーゼンドルファーに触れていますが、70歳を越えた彼のすぐそばにもこのようにベーゼンドルファーの楽器があったことを知ると、ベーゼンドルファーのピアノは彼の音楽家人生の良き友だったのだな、と感じます。英語訳になってしまいますがリストは次のような言葉を残しています。

   “The perfection of a Bösendorfer exceeds my most ideal expectations…”

「ベーゼンドルファーは完璧であり、わたしの理想を遥かに超えてくれる…」といったところでしょうか。今日でも愛され続けるリストのピアノ曲の数々が生まれた背景にベーゼンドルファーのピアノの存在があったということを知ると、ベーゼンドルファーのピアノでリストを聴くことがなんだか楽しみになってきますね。

 

 それでは最後にリスト記念博物館の写真と共にこの度の小話を締めくくりたいと思います。写真撮影にご協力頂いた山中歩夢さん本当にありがとうございました!!写真を見ていたらブダペストに行きたくなりますね。それでは、寒くなってまいりましたが皆さまお体ご自愛下さい。

リスト記念博物館

リスト記念博物館