第12回 ベーゼンドルファーのおはなし

第12回 ヨハン・シュトラウス2世のベーゼンドルファー

(文:川口成彦)
(文:川口成彦)
 寒い冬もそろそろ過ぎ、春はあと少しでしょうか。毎年11日にウィーンの楽友協会の黄金のホールではニューイヤーコンサートが行われ、ヨハン・シュトラウス一族のワルツが人々を楽しませてくれます。演奏はライブで世界中に発信されているので、親しまれている方もいるのではないでしょうか。春が近づいてくると、ヨハン・シュトラウス2世の 『春の声』 もふと聴いてみたくなります。さて今回は「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス2世とベーゼンドルファーにまつわるおはなしをしたいと思います。
楽友協会

楽友協会

黄金のホール

黄金のホール

【シュトラウス2世、そしてルードヴィヒとの出会い】

 『ラデッキー行進曲』で有名なヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauss I, 1804-1849) の息子であるヨハン・シュトラウス2世(Johann Strauss II, 1825-1899)は『美しき青きドナウ』、『ウィーンの森の物語』、オペレッタ 『こうもり』など数々の名曲を生み出し、「ウィーンの太陽」、(皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に対比して)「ウィーンのもう一人の皇帝」などと呼ばれるほどにオーストリア、そしてヨーロッパで絶大な人気を誇りました。そしてブラームスは「シュトラウス(2世)の音楽こそウィーンの血であり、ベートーヴェン、シューベルトの流れを直接受けた主流である」と述べ、ワーグナーは「彼はヨーロッパ音楽の最高峰の一つである。われわれの古典はモーツァルトからシュトラウスまで一筋に続いている」とまで述べました。シュトラウス2世が死去するとウィーン市はすぐにウィーン中央墓地の中に特別な墓地を設け、葬式には10万人もの市民が参列したと言われています。

 このようにウィーンの音楽界の星であったシュトラウス2世は、やはりウィーンの音楽界で重要な人物であったルードヴィヒ・ベーゼンドルファー(ベーゼンドルファー社を設立したイグナーツの息子、「第3回」参照。)と交流がありました。ルードヴィヒとシュトラウス2世が初めて出会ったのは1890年の謝肉祭で開かれた市庁舎での舞踏会でのことでした。シュトラウス2世はこの舞踏会のために 『市庁舎舞踏会 op.438』 を作曲しています。舞踏会で知り合った二人はすぐに親しくなり、タロックというカードゲームの仲間にもなりました。タロックは「タロット」とも言います。54枚のカードを使用して3人で遊ぶゲームらしいのですが、ゲーム内容はここでは省略いたします。。

 

ヨハン・シュトラウス2世

ヨハン・シュトラウス2世

【シュトラウスに贈られたベーゼンドルファーのピアノ】

 2人の交友関係が出会いの後も続いたことを、1896年にルードヴィヒからシュトラウスにピアノが贈ったということから伺うことができます。しかもそのピアノはシュトラウスのために特別にデザインされたピアノでした。シュトラウスはこのベーゼンドルファーのピアノをウィーンの自宅の音楽室に置いていました。そしてこのピアノと共に彼の晩年最後の2つのオペレッタ 『理性の女神』、『ウィーン気質』、そして数多くのポルカを作曲しました。シュトラウスが死んだ1899年に、妻のアデーレがピアノを応接間に移し、1920年代までそこにピアノは置かれていたそうです。しかしピアノがシュトラウスの家を離れざるを得ない時がすぐそばまで近づいていました。そうです、ナチスの脅威がウィーンにも忍び寄っていたのです。

  アデーレは恐ろしい時代の到来することを敏感に感じ取っていました。シュトラウス2世のピアノはオーストリアの国宝とも言えるものであり、ナチスに没収される危険性も感じていたようです。そういったことからアデーレは自宅からピアノをウィーン市内の秘密の倉庫に移しました。シュトラウス家の出自はユダヤ系であり、そのことをナチス・ドイツは調べ上げます。193311月にはナチスにより、ユダヤ人作曲家の公演を全て禁止する指令が発布されます。そしてメンデルスゾーン、オッフェンバック、マーラーといったユダヤ系作曲家の楽曲がそれ以降徐々に演奏禁止となっていくのです。しかしシュトラウス家の楽曲はナチスから例外的に重要視され公での演奏が認められていました。けれどヒトラーはシュトラウス家の楽譜をすべて廃棄するよう命じた説もあるように、危険と隣り合わせだったことが考えられます。こういった緊迫した状況がすぐそばまで近づいていたのでアデーレの判断がピアノを守ってくれたと言えるでしょう。

 秘密の倉庫の中でシュトラウスのピアノは長いこと静かに眠りました。そして1940年代に戦争も終わりを迎え、ナチス政権が崩れると、ピアノはウィーン国立美術館によって秘密の倉庫から救い出されました。そしてウィーン国立美術館に1950年初頭から展示されるようになり、その後1978年にウィーン市歴史博物館(現ウィーン・ミュージアム Wien Museum)が開館すると、ピアノはこの場所に移され、しばらくその博物館に置かれていました。 

【サンフランシスコへ旅立ったベーゼンドルファー】

 ウィーン市歴史博物館はピアノを保管しながら、ピアノの正式な所有者であるシュトラウス2世の家族をずっと探していました。戦争の時代にシュトラウスの自宅からピアノはやむを得ず外に出され、その後ピアノの所有者であるシュトラウスの家族に返されることなく、楽器は博物館を転々としました。正式な所有者であるシュトラウスの家族はユダヤ系であることを秘密にしていたことから、戦争中に身元を隠して居場所が分からなくなってしまっていたのでした。そして長い時を経て、楽器の正式な相続人であるシュトラウスの家族が特定出来たのはなんと2001年のことでした。そこにはインターネットの普及が大きく関わっていたそうです。シュトラウスの家族が住んでいたのはアメリカのサンフランシスコでした。家族はそのピアノの文化的な価値を深く認識しており、自分たちが所有するのではなく、より相応しい持ち主を探し出すためにオークションを行うことにしたようです。そして身元特定からまた時間が少し経った20078月にピアノはサンフランシスコに旅立ち、99日の日曜日にオークションが開かれました。

【シュトラウスのピアノは現在どこへ??】

どこへ?

 シュトラウスのベーゼンドルファーは今ウィーンの「ヨハン・シュトラウスの家 Johann Strauss Wohnung」という博物館にあります。シュトラウス2世はこの家に1863年から1870年に最初の妻イェティと暮らしています。そして1867年に彼はこの家で『美しき青きドナウ』などの有名なワルツを数多く作曲しました。アメリカの家族のもとに一度戻ったピアノが、こうしてシュトラウス2世の縁の場所に再び帰っていったことにとてもドラマを感じます。美術品や文化遺産にはこのような出来事はよくあることのようですが、、、。そしてこのベーゼンドルファーの復刻版として、今日のベーゼンドルファーは「ヨハン・シュトラウス・モデル」という特別にデザインされたピアノも作っています。

シュトラウス家

シュトラウスピアノ

 ピアノの解説

 ピアノに添えられたプレートには、「ヨハン・シュトラウス所有のグランドピアノ、1896年ルードヴィヒ・ベーゼンドルファー製造 ウィーン博物館友の会寄贈、2008年」と記されています。長い道のりを経て今この場所にあるということになんだか胸をなでおろしたくなる気持ちになります。

 この度、「ヨハン・シュトラウスの家」にはウィーンに住んでいる友人に写真撮影の協力を得ました。ありがとうございました!